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加々爪 直清 (かがつめ なおきよ) 1643〜1685
従五位下土佐守。遠江掛塚藩第2代藩主。加々爪氏は藤原氏良門流で代々駿河国に住し、今川氏に仕えていたが、政豊の時に徳川家康に属して関東入部後に武蔵国内で3000石を与えられた。政豊の孫直澄は3代将軍家光の小姓から書院番頭・大番頭・寺社奉行と累進し、加増されて遠江・武蔵・相模3国内で1万3000石を領する大名となり、掛塚藩を立藩した。直清は伊勢神戸藩主石川総長の2男で、嫡子直輔を22歳で失った叔父直澄の養嗣子となり、延宝7年(1679)、直澄の致仕により家督を相続した。しかし天和元年(1681)、掛塚藩の農民と旗本成瀬正章領の農民との間で争いが起り、境界を巡る訴訟に発展した際、直清の申し立てに不備な点があったため、罪を問われて除封され、兄である神戸藩主石川総良の許に身柄を預けられた。この改易については、先代直澄が着封時に境界の確認をしていなかったことがそもそもの要因であったため、直澄も土佐に配流となっている。貞享2年(1685)10月4日、43歳で没。大名加々爪氏は2代で絶家となったが、直澄の弟信澄と政豊の外孫保忠の系統が旗本として家名を残している。
加賀井 重望 (かがのい しげもち) 1561〜1600
美濃加賀井領主。加賀井氏は後村上天皇の皇子仁瑜法親王が大須真福寺(現、名古屋市)在住の際に仕えた僧官の末裔といわれている。重望は通称弥八郎、名を重茂・秀重・秀望ともいい、天正12年(1584)、小牧・長久手の役で父重宗とともに織田信雄に属して豊臣秀吉を相手に奮戦した。戦後、一旦所領を没収されたが、その剛勇を買われて秀吉に召抱えられ、旧領に復帰して1万石を領し、使番を務めた。『校合雑記』という本に、近江の伊吹山中に出没する山賊を一人で皆殺しにしたという彼の強さを示す逸話が残されている。慶長3年(1598)、秀吉の遺物村正の刀を受領。同5年(1600)、関ヶ原の役直前の7月19日、三河国池鯉鮒で刈屋城主水野忠重・遠江浜松城主堀尾吉晴らと酒宴を行った際、酔った口論の末忠重を斬殺し、吉晴ら数人を負傷させ、自身もその場にいた兵士達によって殺害された。重望は石田三成と親しく、東海道の諸大名を西軍に加担させるべく東下していたものと思われるが、事件が単なる口論から起ったものなのか、なんらかの謀略であったのかは定かではない。なお、重望の子息某は9月15日の決戦で西軍主力が敗れた後、大垣城に篭城し、開城の際、水野勝成(重望が斬殺した忠重の子)によって処刑されたという。
垣見 一直 (かきみ かずなお) ?〜1600
和泉守。豊後富来領主。名を家純ともいう。近江出身で、豊臣秀吉に仕えて金切裂指物使番となる。天正12年(1584)、小牧・長久手の役の際、美濃大垣城の普請を担当。同18年(1590)、小田原平定後の奥州遠征に際し、沿道工事の奉行を務めた。文禄元年(1592)、朝鮮の役が始まると熊谷直盛とともに慰問使として渡海。翌年豊後国主の大友吉統が除封された後同国海部郡の豊臣家直轄領2万8000石の代官となり、文禄3年(1594)、国東郡富来城主となって2万石を与えられた。慶長2年(1597)、朝鮮再征が発令されると福原直高・熊谷直盛・早川長政・太田宗隆らとともに軍目付として渡海、同年12月の蔚山城救援で活躍するが、在陣中の行動を巡って加藤清正・黒田長政ら前線に立つ武断派諸将と対立するようになり、秀吉死後の慶長4年(1599)、彼らと石田三成との抗争が激化すると、三成派の一直は武断派から軍目付時代の不正を訴えられ、豊臣家中の分断を狙う大老徳川家康の干渉もあって敗訴し、同僚の熊谷らとともに失脚した。慶長5年(1600)、関ヶ原の役では西軍に属して伏見城の攻撃に参加、のち美濃大垣城を守衛したが、9月15日の決戦で西軍主力が敗北した後も篭城して徹底抗戦を主張したため、18日、東軍に寝返った相良頼房らに謀殺された。子孫はのちに旗本に取り立てられている。
垣屋 恒総 (かきや つねふさ) ?〜1600
隠岐守。因幡浦住領主。垣屋氏は桓武平氏の一族といわれているが詳しい出自は不明。室町時代に但馬守護山名氏に仕えて家老となり、同国に所領を与えられたが、天正5年(1577)、豊続の時に織田信長に属して秀吉の麾下に入り、因幡国岩井郡浦住1万石に移封された。恒総は豊続の子で、父とともに秀吉に仕え、天正18年(1590)、小田原征伐に参戦。1592年、家督を継ぎ、文禄の役にも兵400を率いて渡海した。慶長5年(1600)、関ヶ原の役では石田三成の招きに応じて西軍に加担し、伏見城・大津城を攻め落すなど活躍するが、9月15日の決戦で主力が敗れたため高野山千手院へ逃れ自殺、所領を没収された。のち孫の吉綱が紀伊徳川家に召し出され、同藩の上級藩士として家名を残している。
片桐 孝利 (かたぎり たかとし) 1601〜1638
従五位下出雲守。大和竜田藩第2代藩主。片桐氏は清和源氏満快流で、家祖為基が信濃国伊那郡片桐の地に住したためこれを家名とし、子孫為頼の時、本国を去って近江に移住したという。戦国末期、片桐且元は豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583)、賤ヶ岳の合戦で武功を顕し、慶長5年(1600)、関ヶ原の役後、徳川家康の推薦で豊臣秀頼の輔佐役となり、大和竜田2万8000石を領有した。しかし、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件の処理などを巡って秀頼の側近や生母淀殿らと対立すると大坂城を退去し、大坂両陣では徳川方に属して戦い、戦後4万石に加増された。孝利は且元の2男に生まれ、慶長15年(1610)、初めて家康・秀忠に拝謁。元和元年(1615)、父の死により遺領を相続し、寛永10年(1633)、高野山大塔建立の奉行を務めた。寛永15年(1638)8月1日、嗣子のないまま38歳で没し、弟為元(且元4男)が名跡を許されたものの、末期養子であったため旧領のうち3万石を幕府に没収された。
片桐 為次 (かたぎり ためつぐ) 1641〜1655
大和竜田藩第4代藩主。第3代為元の嫡子で、賤ヶ岳七本槍の一人として高名な片桐且元の孫にあたる。承応3年(1654)、初めて将軍家綱に拝謁。同年父の死により遺領1万石を相続するが、翌年11月6日15歳の若さで病死し、嗣子なく所領を没収され、竜田片桐家は4代で絶家となった。寛文2年(1662)、幕府は為次の弟且照(為元の2男)に名跡相続を許し3000石を与えたが、元禄7年(1694)、且照の養子貞就の代に再び無嗣廃絶となり、以後同家が再興される事はなかった。なお、且元の弟貞隆を藩祖とする大和小泉の片桐家は、1万石余の小藩ながら明治まで無事に存続している。
河尻 直次 (かわじり なおつぐ) ?〜1600
肥前守。美濃苗木領主。名を秀長ともいう。織田信長の部将であった河尻秀隆の2男。豊臣秀吉に仕え、小牧合戦、九州征伐、小田原征伐に従軍。この間、天正14年(1586)に京都方広寺大仏殿の普請奉行を務めた。秀吉死後の慶長4年(1599)、美濃・摂津両国内に1万石を与えられ、苗木城主となったが、これは石田三成の引き立てによるといわれている。翌年、関ヶ原の役が起ると西軍に属して伏見城を攻め、のち三成の命で大坂を守ったが、味方主力の敗戦と居城苗木陥落の報を受けて自害、その首級は近江膳所に曝された。また一説に、直次は9月15日の決戦に参加し関ヶ原で討死したとも伝えられる。弟鎮行の系統が幕府旗本として家名を残した。
岸田 忠氏 (きしだ ただうじ) ?〜1615
伯耆守。大和岸田領主。名を晴澄ともいう。大和の国人ではじめ筒井順慶に仕えて2000石を領した。天正13年(1585)、順慶の継嗣定次が伊賀上野に移封された時、筒井家を去って新たに大和国主となった豊臣秀長の臣となる。文禄3年(1594)、秀長の跡をついだ秀保が没して大和豊臣家が断絶すると秀吉の直臣となり、山辺郡岸田で1万石を与えられて諸侯に列した。同年、伏見城の築城工事を分担。慶長5年(1600)、関ヶ原の役では西軍に属し、8月11日、東軍攪乱のため三河藤川駅放火を計画するが失敗、家臣の岸田弥右衛門が捕らえられて処刑されている。その後9月15日の主力決戦にも参加するが敗北、戦後除封のうえ陸奥盛岡の南部利直に預けられ、元和元年12月2日に没した。70歳余であったという。子孫は盛岡藩士として存続。
木下 吉隆 (きのした よしたか) ?〜1598
従五位下大膳大夫。通称半介。名を吉俊・吉種ともいう。豊臣秀吉の臣。木下姓は秀吉から授けられたものと思われる。はじめ右筆として仕えたが、天正11年(1583)頃から有力な側近として頭角を現すようになり、秀吉朱印状の副状の発給や奏者役など、奉行の1人として活躍した。文禄元年(1592)、朝鮮の役が始まると馬廻衆の頭として兵1500を率い、肥前名護屋城に駐留。翌年、豊後国主の大友吉統が朝鮮在陣中の失態によって除封されると、同国大野・直入・大分・海士辺4郡内で2万5300石を与えられて諸侯に列し、従五位下大膳大夫に叙任した。文禄4年(1595)7月、さらに1万石を加増されたが、8月、関白秀次事件に連座して失脚し、所領没収のうえ薩摩の島津義弘に身柄を預けられた。吉隆は事件の当初、秀吉の命で伏見の自邸に秀次を軟禁し、ついで高野山へ追放となった秀次に従って同地に赴き、ここで突然秀次の謀反に加担したいう罪を着せられ、処罰されたのだが、秀次付属の臣でもない吉隆が謀反の謀議に加わったとは考えられず、事の真相は不明である。秀次の助命嘆願でもして秀吉の怒りを買ったか、あるいは豊臣政権内部に吉隆の失脚を望む者がいて、この一件を画策したのかもしれない。慶長3年(1598)3月20日、赦免されぬまま配所の薩摩で自殺している。吉隆は茶道に通じており、当時その方面での名声が高かったという。
木村 由信 (きむら よしのぶ) ?〜1600
美濃北方領主。名を重則・重広ともいう。剣術の達人で、はじめ豊臣秀次の補佐役を務めた木村常陸介重茲に仕え、家老として6000石を領していた。文禄4年(1595)、重茲が秀次に連座して自刃し主家が絶家になると秀吉の直臣となり、美濃北方1万石を与えられて諸侯に列した。慶長3年(1598)、長束正家の指揮の下で越前国の検地に従事している。慶長5年(1600)、関ヶ原の役では西軍に属し、伏見城攻撃戦に参加したのち、美濃大垣城を守衛したが、9月15日の決戦で主力が壊滅すると、東軍に寝返った相良頼房・秋月種長らによって子豊統とともに謀殺された。
京極 高国 (きょうごく たかくに) 1616〜1675
従四位下侍従・丹後守。丹後宮津藩第3代藩主。宮津京極家の祖高知は豊臣時代に近江大津6万石の大名となった参議高次の弟である。高知は秀吉に仕え、文禄2年(1593)、信濃飯田9万石の領主となり、のち10万石に加増され、慶長5年(1600)、関ヶ原の役で東軍に属して9月15日の主力決戦にも参加し、戦後、功によって丹後田辺12万3200石を与えられた。のち宮津に居城を移し、その死後、遺領は高広(宮津7万8200石)、高三(田辺3万5000石)、高通(峰山1万石)の3子に分封された。高国は2代藩主高広の嫡子に生まれ、承応3年(1654)、父の隠居にともない家督を相続。当初は善政を行い領民の評判も良かったが、次第に慢心して虐政を重ねるようになり、見かねた父高広が幕府に暴状を訴えたため、寛文6年(1666)5月3日に所領を没収された。高国は陸奥盛岡藩主南部重信にお預けとなり、延宝3年(1675)12月24日、赦免されぬまま同地で死去した。のち高国の嫡子高規は2000石の旗本に取り立てられ、子孫は高家として家名を残している。
京極 高寛 (きょうごく たかのり) 1717〜1726
但馬豊岡藩第4代藩主。高寛の家系は丹後宮津藩主京極高知の3男高三を祖とする。高三は元和8年(1622)、兄高広から3万5000石を分封されて同国田辺藩主となり、寛文8年(1668)、孫の高盛の代に但馬豊岡に移封されて3万3000石を領し、以後高住・高栄・高寛と続いた。高寛は3代藩主高栄の庶子であったが、享保6年(1721)1月、世子に定められ、同年8月、高栄が急死したためわずか5歳で遺領を継いだ。享保11年(1726)9月12日、高寛は10歳で没し、幼少死のため継嗣もなく所領は一旦幕府に没収された。しかし9月19日、弟の高永に1万8000石の減封で家名相続が許され、子孫は1万5000石の豊岡藩主として明治まで存続した。
京極 忠高 (きょうごく ただたか) 1593〜1637
従四位下左近衛権少将。出雲松江藩主。若狭小浜藩主であった京極高次の嫡子。京極氏は宇多源氏を称する近江佐々木氏の一流で、佐々木信綱の4男氏信が京都の京極高辻に館を構えたためこれを家名とした。室町時代には近江・出雲など数ヶ国の守護職を兼ね、四職家に列せられたほどの名門であったが、戦国初期に家督を巡る内紛を起こし、その間に近江を被官の浅井氏に、出雲を守護代尼子氏に押領され、衰退していった。忠高の父高次は織田信長・豊臣秀吉に仕えて京極氏を再興し、近江大津6万石の大名となり、関ヶ原の役で東軍に属して戦い、戦後徳川家康から若狭小浜8万5000石を与えられた。忠高は慶長14年(1609)、父の遺領を相続、母が常高院(浅井長政の2女、秀忠正室達子の姉)ということもあって外様ながら徳川氏から縁戚として処遇された。慶長19年(1614)、大坂冬の陣に従軍した際、家康の命で常高院とともに和議に当たり、翌年夏の陣では首級300余をあげる活躍を見せた。寛永11年(1634)、堀尾忠晴除封後の出雲・隠岐2国に所領を移され、26万4000石の太守となるが、同14年(1637)6月12日、45歳で没し、嗣子がなかったため絶家となった。忠高には妾腹の子があったともいう。『藩翰譜』には、「忠高、大相国家(秀忠のこと。大相国は太政大臣の唐名)第四の姫君に添ひまいらす。北の方(忠高の正室は秀忠の娘初姫)は御子なくして、妾の腹に男子一人ありしかど、将軍家の御聴えを憚りて、初めより子なき由、申せしかば、世嗣なくして家絶えぬ」とある。半年後、高次・忠高2代の功績を重く見た幕府は忠高の甥高和に播磨竜野6万石を与え、家名の存続を許した。実はこの高和が妾腹の子で、忠高が自分の子として認知できないため、若死にした弟の子ということにして手許で養育していたともいわれているが、真相は定かではない。高和は万治元年(1658)、竜野から讃岐丸亀に移封され、子孫は同地に定着して明治を迎えた。
久世 広周 (くぜ ひろちか) 1819〜1864
従四位下侍従。下総関宿藩第7代藩主。久世氏は村上源氏久我氏の庶流で、室町時代に三河国に移住して松平氏に仕えたといわれている。広周は旗本大草高好の2男で、6代藩主久世広運の養嗣子となり、天保元年(1830)、遺領5万8000石を相続、奏者番・寺社奉行・西丸老中を経て嘉永4年(1851)、本丸老中となり、勝手掛・外国御用取扱を兼務した。広周は諸外国との通商条約締結や13代将軍家定の継嗣問題を巡って大老井伊直弼と対立し、安政5年(1858)、老中を解任されたが、万延元年(1860)、桜田門外の変で直弼が暗殺されると老中に再任され、1万石を加増された。幕閣に復帰し老中首座となった広周は旧井伊派の老中安藤信正(陸奥磐城平藩主)と連立政権を組み、安政大獄後の混乱した国内政治の収拾にあたる一方で、ヒュースケン暗殺事件やロシア艦隊の対馬占領事件など外交問題処理にも奔走、また長州藩士長井雅楽の航海遠略策に共鳴して公武合体政策を推進するが、文久2年(1862)1月15日、坂下門外の変で安藤信正が負傷して失脚すると政権は崩壊し、広周は6月2日に辞職した。8月16日、在職中の不正を理由に1万石没収のうえ、隠居・謹慎を命ぜられ、家督を嫡子広文に譲って関宿に帰藩。のち井伊直弼の死を病死と偽って報告していたとして、永蟄居の追罰を受けた。2年後の元治元年(1864)6月25日、明治維新を見ることなく46歳で没。
久世 広文 (くぜ ひろふみ) 1853〜1899
従五位下隠岐守。下総関宿藩第8代藩主。7代広周の嫡子。父広周は幕末の混乱期に老中となり、幕府安泰を図り公武合体政策を推し進めたが、文久2年(1862)6月に失脚し、1万石を没収されて隠居・謹慎処分となった。広文は10歳で家督を継ぎ、5万8000石を襲封。しかし、同年11月20日、広周が在職中に大老井伊直弼の死を病死と偽って将軍に報告していたことなどが発覚したとして、追罰で1万石を没収された。既に隠居していた広周はこの時さらに永蟄居を申し渡されている。慶応4年(明治元年・1868)1月、戊辰戦争が始まると関宿藩は佐幕派と勤王派に分裂、15歳の広文は本人の意思と係わりなく佐幕派に擁立されてしまい、藩士180名が彰義隊とともに官軍と戦ったため、12月7日、5000石減封のうえ隠居を命ぜられ、家督は弟広業(広周の2男)が相続した。広文は翌年9月28日に赦免され、10月13日に従五位に復し、明治32年(1899)、47歳で没した。
熊谷 直盛 (くまがい なおもり) ?〜1600
内蔵允。豊後安岐領主。名を直陳ともいう。豊臣秀吉の臣で金切裂指物使番の一員。文禄元年(1592)、朝鮮の役で慰問使として垣見一直とともに渡海、帰国後豊臣家直轄領である豊後直入郡3万2900石余の代官となり、内3000石を与えられた。慶長2年(1597)、第二次外征の際先手軍目付として再び渡海し、戦地の情報を収集するとともに黄石山城攻撃や蔚山城救援にも参加し、軍功によって豊後安岐1万5000石に封ぜられた。直盛は朝鮮在陣中、目付という職務柄、諸将の行動を逐一秀吉に報告していたが、このことで前線に立つ加藤清正・黒田長政らいわゆる武断派諸将の恨みを買い、秀吉死後、徳川家康の後援を得た彼らの訴えによって失脚した。慶長5年(1600)、関ヶ原の役では西軍に属し、兵450を率いて近江瀬田橋を警護、次いで美濃大垣城に入り二の丸を守ったが、主力敗戦後の9月18日、東軍に寝返った相良頼房らに謀殺された。直盛は資性勇猛にして千利休門下の茶人でもあり、また石田三成の女婿であったとも伝えられる。
黒田 長清 (くろだ ながきよ) 1667〜1720
従五位下伊勢守。筑前直方藩主。福岡藩第3代藩主黒田光之の4男。元禄元年(1688)、兄綱政(長寛)が本家を相続すると鞍手郡内の新田5万石を分封され、同3年(1690)、直方に居所を構えて立藩した。正徳元年(1711)、綱政が死去し子の宣政が跡を継いだが、生来病弱であったため、長清の長男菊千代が養嗣子となり、長清は福岡藩の後見役を務めた。享保5年(1720)2月23日、江戸の藩邸において54歳で没したが、菊千代はすでに継高と名乗って福岡藩を継いでおり、2男・3男は早世していたため、無嗣廃絶により除封され、5万石は福岡藩に還付された。明治29年(1896)、最後の福岡藩主であった黒田長知の4男長和が分家して直方黒田家を再興し、男爵を授けられている。
桑山 一尹 (くわやま かずただ) 1645〜1683
従五位下美作守。大和新庄藩第3代藩主。桑山氏の祖は豊臣秀吉に仕えて歴戦し、紀伊和歌山4万石の領主となった重晴である。慶長5年(1600)、重晴は関ヶ原の役で東軍に属し、戦後所領を大和・和泉両国に移され、同年、嫡子一重が早世していたため、大和布施1万6000石を嫡孫一晴に譲って隠居した。一晴は慶長9年(1604)に没し、遺領は弟の一直が継いだが、この時藩名を布施から新庄と改称し、以後一玄・一尹と続いた。一尹は第2代藩主一玄の嫡子で、延宝5年(1677)に家督を相続、その際弟一慶、一英にそれぞれ分封したため、藩領は1万1000石となった。天和2年(1682)5月、前将軍家綱の法会が上野寛永寺で行われた時、一尹は公家衆の饗応役を命ぜられたが、勅使参詣の日に不敬の振舞いがあったとして5月26日、所領を没収され、弟一慶の許に身柄を預けられた。法事場で陸奥八戸藩主南部直政と悶着を起こしたためという。かくして新庄桑山家は廃絶となったが、弟2人の系統は旗本として存続している。
桑山 清晴 (くわやま きよはる) 生没年不詳
和泉谷川藩第2代藩主。桑山氏は源頼朝に従って戦功を挙げた結城朝光の末裔で、代々尾張国海東郡桑山庄に住したためこれを家名にしたという。清晴の祖父重晴は豊臣秀吉が近江長浜城主だった頃からの家来で、のち紀伊和歌山4万石の領主となり、慶長5年(1600)、関ヶ原の役で東軍に属して活躍し、戦後所領を大和・和泉両国に移された。同年、重晴は致仕して所領を嫡孫一晴(大和布施藩1万6000石)と2男元晴(大和御所藩1万石)に譲り、自身は養老料として和泉谷川1万6000石を領した。慶長11年(1606)、重晴が没すると、遺領のうち6000石は元晴に与えられたが、残る1万石は重晴の遺言もあって元晴の嫡子清晴が相続し、第2代谷川藩主となった。しかし慶長14年(1609)、清晴は将軍秀忠の意を損じたとして除封され、谷川藩は廃藩となり所領1万石は父元晴の領地に加えられた。改易の理由については、清晴が病気で勤仕不能となったため、自ら所領を返上して蟄居したという説もある。谷川藩の旧領が元晴に与えられているところを見ると、こちらの方が正しいのかもしれない。
桑山 貞晴 (くわやま さだはる) 1604〜1629
従五位下加賀守。大和御所藩第2代藩主。同藩の初代藩主元晴は慶長5年(1600)の関ヶ原の役後、父重晴から大和国葛上郡で1万石を分封されて大名となり、のち父の遺領と改易された長男清晴の1万石を加えられ、その所領は2万6300石となった。貞晴は元晴の2男に生まれ、元和6年(1620)に家督を相続。しかし、寛永6年(1629)9月29日、嗣子のないまま26歳の若さで病死した。貞晴は臨終に際し、末弟の栄晴に家を継がせたいと幕府に願い出たが、末期養子は認められず、御所桑山家は2代で無嗣廃絶となった。なお、桑山氏は本家の大和新庄(布施)藩、貞晴の兄清晴の和泉谷川藩ともに取り潰されたため大名としては消滅したが、寛永7年(1630)、栄晴に500俵が下賜されて名跡相続を許され、子孫は1000石の旗本として存続している。
小出 重興 (こいで しげおき) 1663〜1696
和泉陶器藩第4代藩主。小出氏は藤原南家二階堂氏の支流で、信濃国伊奈郡小出に住した二階堂行政の9代目時氏から地名を取って小出を称し、後裔祐重の代に尾張国愛智郡中村に移住したという。祐重の孫秀政は同郷の縁で早くから豊臣秀吉に仕え、その叔母(秀吉生母大政所の妹と伝えられるが、秀政は秀吉よりも年下なのであるいは姪の誤りか)を娶った関係で重用されて和泉岸和田3万石の大名となり、長男吉政も父とは別に但馬出石で6万石を与えられた。陶器藩は慶長9年(1604)、秀政の4男三尹が吉政の跡を継いで出石藩主となった吉英から和泉大鳥、河内錦部、摂津西成、但馬気多・美含の5郡内で1万石を分封されて和泉陶器に陣屋を置いたのに始まり、以後有棟・有重と続いた。重興は3代藩主有重の嫡子で、延宝6年(1678)、初めて将軍家綱に拝謁し、元禄6年(1693)、家督を相続するが、3年後の元禄9年(1696)4月9日、嗣子のないまま34歳で病死した。死に臨んで重興は弟重昌を継嗣にする旨を幕府に願い出たが、相続許可の出る前に重興は没し、その4ヵ月後に重昌も16歳で急死したため、無嗣廃絶により除封された。宝永2年(1705)、重興の叔父有仍が5000石で陶器小出家の再興を許され、子孫は旗本として存続している。
小出 英及 (こいで ふさつぐ) 1694〜1696
但馬出石藩第9代藩主。小出家は戦国末期に家祖秀政が織田信長の武将だった頃の豊臣秀吉に仕え、その出世とともに大名になった家で、同藩は秀政の長男吉政を藩祖とする。英及は元禄7年(1694)、8代藩主英長の嫡子として生まれ、同年父が急死したため生後4ヶ月で家督を相続した。小出家では7代英益が26歳、英長が30歳と短命の当主が続いており、領内には新しい殿様も夭逝して御家はお取り潰しになるのではないかという噂が流れていたと伝えられるが、やがてこれが事実となり、元禄9年(1696)10月22日、英及はわずか3歳で病死して出石小出家は無嗣廃絶により除封された。この年は同族の陶器小出家も嗣子なく改易されており、一族にとっては受難続きの時期であった。なお、吉政の2男吉親の系統は丹波園部藩主として明治まで存続している。
小堀 政方 (こぼり まさみち) 1742〜1803
従五位下備中守・和泉守。近江小室藩第6代藩主。小堀氏は藤原北家秀郷流を称し、光道の代に近江国坂田郡小堀村に住して小堀を名乗ったとされる。子孫政次は浅井長政・豊臣秀吉に仕えて能吏として知られ、大和・和泉両国で5000石を知行し、関ヶ原の役後、徳川家康に仕えて備中松山1万4000石の大名となった。その子政一(茶人・造園家として高名な小堀遠州)の代に近江小室に移封され、以後正之・政恒・政房・政峯と続き、その間分知があったため本藩は1万600石に減少した。政方は5代藩主政峯の7男で初名を政弥といい、宝暦8年(1758)、父の隠居により襲封。先祖同様茶道をよくし、修善庵と号した。明和7年(1770)、大番頭、安永7年(1778)、伏見奉行と順調に昇進したが、天明5年(1785)伏見の町民文殊九助らの訴えで数々の不正が発覚したことにより奉行を罷免され、さらに天明7年(1787)、田沼意次が失脚して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まると、政方は綱紀粛正の一環として翌年5月6日、在職中の専横を理由に所領を没収され、相模小田原藩主大久保忠顕に身柄を預けられた。政方は奉行在職中、悪化していた藩財政の補充や自らの奢侈のために町民にしばしば御用金を課し、11万両に及ぶ搾取を行っていたという。享和3年(1803)9月8日、62歳で没。なお、小堀家は文政11年(1828)に政方の甥政優が300俵を与えられて再興を許され、この系統が茶道遠州流の宗家として存続している。
近藤 政成 (こんどう まさなり) 1588〜1618
従五位下信濃守。名を高政ともいう。織田信長・豊臣秀吉に仕えた勇将堀秀政の4男。天正18年(1590)、堀家の重臣で1万石を領していた近藤重勝の養嗣子となる。慶長5年(1600)、養父重勝と大坂城で徳川家康に拝謁して忠誠を誓い、小姓に取り立てられ、関ヶ原の役にも従軍した。同9年(1604)、越後国内にあった重勝の遺領1万石を相続。同15年(1610)、一族の越後福島藩主堀忠俊(政成の長兄秀治の嫡子)が改易されると所領を信濃国高井・美濃国安八・山県・石津・中島の2国5郡内に移された。政成はその後大坂両陣にも参戦したが、元和4年(1618)6月22日に31歳で没し、嫡子重直はわずか7歳であったため、藩主の任に堪えられないという理由で5000石を没収された。重直は残る5000石を受封し、子孫は旗本として存続した。