wolfpac.press.ne.jp

華族一覧表

皇族の部 16家 | 公家の部 142家 | 公家分家・地下の部 51家 | 諸侯の部 286家 | 諸侯分家の部 39家 | 神職・僧職の部 20家 | 勲功者の部1 242家 | 勲功者の部2 215家 | 勲功者出自一覧 | 華族になれなかった家

爵位別華族表 | 爵位返上年表 | 出身都道府県別華族戸数表 | 華族類別録 第1類〜第36類 | 華族類別録 第37類〜第76類 | 公家の家格と家系 | 華族令制定以前の貴族比例 | 華族令・改正華族令 | 明治初年藩別領地高一覧 東国編 | 明治初年藩別領地高一覧 西国編 | 宮中席次 | 歴代首相出自一覧

解説

本表は、明治17年(1884)7月7日に制定された華族令及び明治40年(1907)5月7日の改正華族令によって爵位を授けられた家を出身別に分類したものである。授爵者氏名・授爵年月日・爵位の他、皇族は出身皇族を、公家は家格・家系を、諸侯は藩名・江戸城での詰席を、勲功者は功績・役職等を記入した。公家・諸侯の授爵年月日は伯爵以上が同年7月7日発令、子爵以下が同8日発令であるが、当主不在その他の理由で授爵が遅れた家については、別に備考欄に年月日を記入した。華族を辞退した広島新田藩浅野家と、華族令制定以前に華族身分を剥奪され、士族に降格された遠江堀江藩大沢家は除外した。

叙爵内規

公家の部

公家142家の内、江戸期の堂上は137家で、岩倉(具経)・北小路(俊昌)・玉松・若王子・松崎の5家は、慶応3年(1867)10月の大政奉還後堂上に列したため他と差がつけられ、男爵となった。家格と家系については別頁を参照。維新の勲功によって基準以上の爵位を与えられたのは三条実美、岩倉具定(具視の子)、中山忠能、東久世通禧の4人である。明治2年(1869)12月以降に成立した分家23家、堂上格(奈良華族)26家、地下(局務・官務)2家を合わせた51家は別表に掲載した。これらのうち、近衛家だけが本家の功によって子爵を授けられ、他は全て男爵となっている。

諸侯の部

家格によって爵位が定められたのは旧薩長藩主の島津家、毛利家と江戸幕府の将軍家である徳川宗家、尾張・紀伊・水戸の徳川旧三家、田安・一橋・清水の旧三卿、旧琉球藩王の尚家で、それ以外の家の爵位は全て石高によって決められた。石高は表高ではなく、実際の収納高によって評価された(明治初年藩別領地高一覧を参照)。筑後久留米有馬家、近江彦根井伊家、陸奥仙台伊達家、伊勢津藤堂家など、表高が15万石以上でありながら侯爵になれなかった家があるのはこのためである。なお、叙爵に際して、幕末に勤皇を掲げた藩と佐幕行動を取った藩では差がつけられたように思われがちだが、そうした事実はない。官軍の彦根井伊家、津藤堂家が、賊軍とされた仙台伊達家、米沢上杉家と同じ伯爵であることを見てもわかるように、戊辰戦争で敗れた諸藩は戦後減封されたものの、減封後の現米相当の爵位を、公平に授けられているのである。対馬府中宗家と肥前平戸松浦家は、現米5万石未満で本来なら子爵であったが、宗家は対馬島主としての歴史的・対外的な特異性、松浦家は明治天皇の外戚中山家に連なっていた点が考慮され、一段上の伯爵を授けられた。諸侯華族の例外はこの2家のみで、後に個人の勲功によって陞爵した家もあるが、基準はほぼ完璧に守られたと言っていい。

維新後に諸侯に列したのは、徳川旧三家の付家老だった紀伊田辺安藤家、美濃今尾竹腰家、常陸松岡中山家、尾張犬山成瀬家、紀伊新宮水野家の5家と、交代寄合で内高1万石以上の播磨福本池田家、出羽矢島生駒家、大和田原本平野家、常陸志筑本堂家、備中成羽山崎家、但馬村岡山名家の6家に長州藩毛利家の分家である周防岩国吉川家を加えた全12家で、これらの家は幕末まで諸侯だった家と差がつけられ、男爵となった。また、戊辰戦争の敗戦で唯一除封された上総請西藩林家も、明治26年(1893)に男爵を授けられている。旧高家の大沢家は明治元年(1868)、新政府に実高1万石余の領有を報告して堀江藩を立藩したが、のちに虚偽だったことが発覚したため華族を除名され、爵位を与えられなかった。

琉球の尚家は明治5年(1872)、19代尚泰が琉球藩王となって華族に列し、明治18年(1885)、侯爵を授けられた。のちに分家4家も男爵となっている。琉球藩の江戸期の朱印高は12万3700石で、そのうち薩摩藩領を除く8万9000石余を領有していた。参勤交代をしないため他の大名のように江戸城中での詰席はなかった。

神職・僧職の部

神職14家のうち、鎌倉末期に成立した高千穂家以外はいずれも神代より連綿と続く名族で、世々国教を奉し国祭を司ってきた功労により華族に列せられた。僧職6家は全て浄土真宗で、摂家準門跡等の称号を持ち、堂上と同格とされた。大覚寺・実相院等はこれらの称号を有していたが、真言・天台の宗派に属し、師から弟子へと受け継がれる法脈相続で本願寺のような血脈相続の家ではなかったため、世襲を原則とする華族にはなれなかった。ちなみに明治政府が華族制度を作る上で参考としたイギリスの貴族制度で聖職者がどのような扱いを受けているかというと、国教会の最高聖職者であるカンタベリー、ヨークの両大主教、その下の主教40人ともに世襲ではないが、在位中は貴族に列せられ、宮中序列において両大司教は一般公爵(イギリスには公爵の上に日本の皇族の宮家に相当する王族公爵が存在する)よりも上位に、司教は子爵の下位、男爵の上位に置かれている。

華族になれなかった家

華族の設置から華族令制定までの15年間に華族に列したのは、旧公家、旧諸侯、由緒ある神社の神官、本願寺の僧侶、南朝功臣の子孫などのいわゆる家柄華族であったが、実はこれらと同等、もしくはそれに準ずる家格であるにもかかわらず、華族となることができなかった家が存在した。華族令制定以前の叙族内規では五等華族(男爵相当)とされていたのに、制度成立の過程で該当項目が削除されたために士族に終わってしまった伏見宮殿上人の若江家、六位蔵人の藤島家・細川家、1万石の諸侯になるために浜名湖の湖面を開墾地と偽り、発覚して華族を除名された旧高家の大沢家、後醍醐天皇の後裔の氷室家などである。これらの諸家は自薦・他薦を含めて盛んに嘆願運動を行い、中には理に適ったものもあったが、すべて却下された。名家の末裔というだけで国家に功があったわけでもない者を華族とすることには政府や華族内にも批判的な声が多く、現に明治16年(1883)、神官華族新設の議が上った時には、家柄華族の最たるものである堂上華族の東久世通禧ですら、「これ以上家柄華族を増やしても益なし」と反対している。一応嘆願が却下される際には各家ごとにそれらしい理由がつけられたのだが、こうした世情が家柄華族の増加を抑制する大きな要因となり、名門でありながら華族になれなかった家を数多く誕生させることになったのである。

華族類別録

明治11年(1878)10月、『華族類別録』が刊行され、華族に頒布された。これは9世紀に成立した『新撰姓氏録』に倣って当時の全華族476家の出自を皇別(天皇の子孫を名乗る氏)、神別(神話時代の神々を祖先とする氏)、外別(帰化した外国人を先祖に持つ氏)、その他(豊臣家、琉球の尚家)に大別し、さらに76の類に編成したもので、それまで別個の存在であった旧公家と旧諸侯を新時代の特権階級として同族化させ、皇室の藩屏とする事を目的に作成された。旧諸侯の一部には系譜の曖昧な家や、詐称と思われるものも含まれているが、全華族はこの類別に従って宗族を構成し、宗族会を設けて先祖供養や養子のやりとりを行った。類別制はのちに勲功華族の大量出現によってその意義を失ったため、宮内省でも廃棄されたが、宗族会の中には現在でも活動を続けているものがある。

族称と範囲

華族は本来堂上公家の家格の一つである清華家の別称であるが、これがなぜ新たな特権階級の族称として使われるようになったのかは実は今でもよくわかっていない。岩倉具視や広沢真臣の意見書などによると、この他にも「貴族」「公族」「勲家」「卿家」といった案が検討されていたらしい。華族の族称は明治2年(1869)6月17日の行政官布達第54号『官武一途上下協同之 思召ヲ以テ自今公卿諸侯之称被廃改テ華族ト可称旨被 仰出候事』で初めて公に登場したが、この草案では華族の2字が欠字になっていたといわれており、用語の制定に際して最後まで激しい議論があったことを窺わせる。

華族としての礼遇が与えられたのは有爵者だけでなく、有爵者と同一戸籍内にいる祖父母、父母、妻、嫡長子孫とその妻までが華族の範囲に含まれる。ただし、爵位を名乗れるのは男性の戸主だけで、男子の継承者がおらず女性が戸主となった場合には、3年以内に養子を迎えるなどして代わりの男性戸主を立てなければ爵位を失い、華族から除名された。また有爵者の子弟が結婚や分家によって戸籍を離れると平民となり、その時点で華族ではなくなった。しかし、分家した場合でも一条男爵家や山県男爵家のように特旨によって本家とは別に爵位を与えられ、華族に列することもあった。なお、華族は身分上の件に関しては宮内省の監督下に置かれ、有爵者の結婚・養子縁組・隠居等は宮内大臣の認許を受ける必要があり、その家族についても同様であったが、これらはあくまでも形式的なもので、実際に宮内大臣が一々結婚相手について調べて許否を下すというわけではなく、各家ごとの私的な事情は別にして、結婚についての法的な制限はなかった。

特権と経済力

公家・諸侯華族は当初、江戸時代の収入に比例した家禄が付与されていたが、のちに金禄公債がこれに代わり、さらに明治19年(1886)、華族世襲財産法(指定した資産に対し、第三者の所有権・質権・抵当権主張を不可能にした法)によって経済的特権が確立された。ついで明治22年(1889)、大日本帝国憲法、貴族院令制定で、30歳以上の公・侯爵全員、30歳以上の伯・子・男爵は各5分の1の互選により伯爵18名、子・男爵各66名の計150名が7年の任期をもって貴族院議員となることを認められ、皇族男子や勅選議員とともに貴族院の主要構成員となる政治的特権が与えられた。一方で華族には衆議院議員の選挙権と被選挙権はなかった。社会的特権としては、爵位の世襲、叙位(有爵者の嫡出子は成年に達すると自動的に従五位に叙せられる)、家範の制定、宮中席次の保有、子弟の学習院入学、特定官職への就任(法的に定められてはいないが、慣例として貴族院の正副議長・宮内大臣・宗秩寮総裁は華族出身者に限られる)等があった。

華族には経済的特権が与えられていたものの、旧公家などは家禄自体が少なかったために金禄公債発行後も家計の苦しい家が多く、とくに分家や奈良華族はそれが顕著で、華族の体面を維持することができずに爵位を返上する者もあらわれた。本来、華族の保護を目的に作られた世襲財産法も、差し押さえを免れるかわりに売却も禁じられていたため、資産のない華族にとっては逆に負担となることもあり、このため、大正5年(1916)、指定した世襲財産を廃止することができるように改正された。困窮している華族が宮中の晩餐会に招かれる度に高価な食器を持ち帰ってしまうので、宮内省の担当役人が食器補充の費用捻出に頭を悩ませたという笑えない話も残っており、かつて大藩の主だった諸侯華族や一部の勲功華族を除いて、一般人が思い描くような上流階級の優雅な生活をおくっていた華族は実際にはそれほど多くなかったようである。

制度の終焉

終戦後に起った憲法改正議論の中では、華族制度に関する条項も重要な議題の一つであった。廃止は既定路線だったとはいえ、現状の有爵者一代に限り称号を用いることを許す、というGHQ側の内意もあり、昭和21年(1946)3月6日に発表された帝国憲法改正要綱(草案の発表は4月17日)では、華族制度は認めないとしながらも、補則第97条「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」とされていた。しかし、この条文は旧憲法下での最後の議会となった第90回帝国議会の審議において「民主化を促進する現代の要請と相容れない」という理由で削除され、華族制度の即時廃止が決定した。新憲法は同年10月7日に修正可決、11月3日公布、翌22年(1947)5月3日に施行された。

日本国憲法 第14条 【法の下の平等、貴族制度の否認、栄典の限界】

1. すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2. 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3. 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

この時の有爵者数は公爵17名、侯爵38名、伯爵105名、子爵351名、男爵378名の計889名であった。政府は占領軍、あるいは世論に気兼ねしてか廃止に伴う特別な儀式などは行わず、このため昭和天皇は在京及び近県在住の華族を非公式に招集、5月15日午前10時、皇居に伺候した島津忠重公爵以下204名は表三の間で拝謁し、「この度華族制度は終了した。各自はこれからも祖先の名を辱めないよう努力してほしい」という趣旨の御言葉を賜ったという。かくして、華族は明治2年(1869)の誕生から78年、同17年(1884)の華族令制定から63年で、その歴史に幕を降ろしたのである。

昭和22年5月15日に参内した旧華族

公爵 7名
島津忠重 伊藤博精 鷹司信輔 徳大寺実厚 岩倉具栄 二条弼基 桂広太郎

侯爵 10名
徳川義親 佐佐木行忠 黒田長礼 鍋島直泰 野津高光 中御門経恭 山階芳麿 四条隆徳 前田利建 佐竹義栄

伯爵 28名
林博太郎 佐野常羽 黒田清 阿部正直 柳原博光 坊城俊良 広橋真光 山本清 徳川宗敬 大木喜福 宗武志 溝口直亮 樺山愛輔 室町公藤 正親町公和 ニ荒芳徳 広沢真吾 後藤一蔵 上杉憲章 南部利英 三条西公正 香川敬男 壬生基泰 酒井忠博 小笠原忠統 松平頼明 東久世通忠 島津忠韶

子爵 83名
武者小路公共 大河内輝耕 秋月種英 岩下家一 八条隆正 松平忠寿 松平乗統 富小路隆直 北小路三郎 松平定晴 大島陸太郎 安藤信昭 本多忠晃 交野政邁 大久保忠言 井上匡四郎 今城定政 西大路吉光 立花種忠 谷儀一 白川資長 戸沢正己 秋田重孝 奥田直元 三室戸敬光 土岐章 波多野二郎 柳沢光治 大久保教尚 舟橋清賢 高木正得 加納久朗 錦小路頼孝 渡辺武 綾小路護 北条雋八 石井隆臣 松平銑之助 石山基弘 森可久 大久保寛一 吉田良兼 花房孝太郎 風早公武 青木重夫 井上正鑑 稲垣重厚 大迫貞矩 松平康春 内藤政光 京極高脩 梅渓通虎 伊集院兼高 入江為常 内藤政道 松平頼庸 七条光明 堤経長 内藤頼博 三浦矢一 柳生重五 大迫尚一 久松定秋 鳥居忠博 稲垣長賢 堀田義正 三宅直胖 阿部正友 小笠原光泰 高松実忠 品川清太郎 芝山信豊 一柳直俊 木下利福 黒田文紀 毛利元靖 石井太郎 牧野忠永 井上勝英 伊達定宗 山尾信一 池田政忠 東坊城元長

男爵 49名
安保清種 東久世秀雄 向山均 飯田精太郎 矢吹省三 三須精一 松平外与麿 関義寿 大蔵公望 山内豊政 久保田敬一 有地藤三郎 宍戸功男 周布兼道 金子吉忠 伊江朝助 高崎弓彦 万里小路元秀 佐竹義履 徳川誠 内海勝二 肝付兼英 林安 梨羽時介 新田義美 岡俊二 益田兼施 一条実基 都筑忠春 有坂純一 片岡藤太 千秋季孝 永山盛綱 橋元正一 鶴殿家勝 岡内重清 岩村一木 渡辺修二 八代五郎造 尾崎忠孝 沢宣一 藤枝雅脩 森村市左衛門 佐竹義利 四条隆貞 浅野忠允 本堂親威 川崎寛正 徳川喜堅

注:204名というのは宮内省の爵位課長であった酒巻芳男氏の『華族制度の研究』(霞会館)によるが、実際には上の177名しか記録されていない。

凡例

藩名は廃藩置県当時の名称で統一した。
維新前後に政庁の移転や地名の変更で名称が変わった藩は、備考欄に変遷を記入した。 例:備中松山藩(板倉家、高梁藩に改称)の場合、松山藩→高梁藩
明治に入ってから移封された藩については、備考欄に○○より移封と記入した。
諸侯の石高は朱印高(表高)を表示した。
内高・収納高の数値は『明治政覧』に拠った。
勲功華族の出身地は本人の生地か所属していた藩の藩庁所在地をもとにした。
複数の県にまたがる藩で藩庁所在地とは別の県に所領を持つ高禄の藩士は、主家とは別の県に入っていることがある。例:徳島藩家老稲田家(淡路洲本城代)の場合、出身地は徳島県ではなく兵庫県としている。
改姓・陞爵・爵位返上・公家の家業・勲功者の官職等は備考欄に記入した。
表中の氏名と陞爵者・爵位返上者は必ずしも一致しない。

トップページへ戻る