播磨三木城跡
(兵庫県三木市上の丸町)
戦国時代に播磨国東部8郡(美嚢・明石・印南・加古・多可・神東・加西・加東)を支配した別所氏の居城跡。別所氏は同国印南郡別所より起った赤松氏族で、赤松円光−別所敦光を祖とする。室町中期、則治が東播3郡の守護代となり、その子重治の時に三木城を築いてここを本拠地とし、主家の赤松氏が衰えた後も有力な在地勢力として続き、重治の孫長治の時、細川庄の領主冷泉為純を滅ぼして東播8郡の支配を完成させた。長治は当初織田信長と好を通じていたが、天正6年(1578)、信長が中国地方の平定に着手し、羽柴秀吉をその部将として播磨へ派遣した際、かねてより関係の深かった安芸の毛利氏と同盟を結んでこれに敵対した。信長に叛いた理由については、当初中国攻めの先鋒を長治が務めることになっていたにもかかわらず、これを秀吉に代えたこと、また信長の嫡子信忠か次子信雄を総大将にすべきところを、卑賤の出身である秀吉に命じたので長治が立腹したためともいわれている。秀吉の調略により播磨の国人層の多くが織田方となったため、長治は三木に篭城、本願寺や毛利輝元の援助を得て徹底抗戦したが、糧食補給に成功せず、2年後の天正8年(1580)1月15日、浅野長政を介して降伏開城し、17日、長治は城中の将兵の助命を条件に一族と自害して果てた。その後、豊臣時代になって三木には中川秀政が領主として入封するが、文禄3年(1594)以降大名は置かれず、元和元年(1615)、一国一城令によって城は破却された。元和3年(1617)、小笠原忠真が明石城を築いた際に、城石などが利用されたという。