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キリシタン大名三箇氏の居城跡。大東市にはかつて宣教師ルイス・フロイスが書簡の中で「湖」と記したほど広大な深野池があり、その中にあったいくつかの島が水量によって三つに見えることがあったために三箇の地名が生まれ、そのうちの西岸近くの島に城が築かれたという。三箇氏は近世大名になれずに没落し、城も破壊されたので正確な築城時期や構造については定かではないが、位置的には戦国期に畿内を支配した三好氏の居城飯盛山城の西方にあり、当時の三箇は摂河泉と大和を繋ぐ水上交通(大和川・寝屋川水運)の要衝でもあったため、同城の支城として重要な役割を果たしていたと思われる。城主の三箇氏は元来大和国宇智郡の国人で、鎌倉中期に河内三箇に移住したと伝えられるが、永禄年間(1558〜1569)以前は不明な点が多く、事跡が明らかになるのはフロイスの『日本史』に洗礼名サンチョの名で度々登場する頼照の代からである。頼照は三好義継、次いで織田信長に属して所領を安堵され、摂津・河内の本願寺勢力と戦う一方で、キリスト教の洗礼を受け、宣教師と信者を保護して領内に1500人(1581年のイエズス会日本年報による。1579年のカリヤン書簡では三箇の信者数は4000人となっているが、信憑性は薄いという)のキリシタンを擁し、「五畿内で最も大にして美麗」と称えられた教会を築いて三箇を高山氏の高槻、結城氏の砂岡山、池田氏の若江と並ぶ近畿キリシタンの一大拠点とした。この教会は現在のJR学研都市線の住道(すみのどう)駅前、北から南に流れる寝屋川が西へ直角に折れる地点の西岸に建っていたと考えられており、住道の地名は教会付近を三角屋根の聖堂という意味で角堂と呼んでいたのに由来するといわれている。天正5年(1577)には本願寺との戦いが激化し、三箇に一揆勢が押し寄せることもあったが、天正8年(1580)、本願寺が信長と講和して石山合戦が終結すると領内も安定し、三箇氏は最盛期を迎えた。しかし、頼照から家督を譲られた子の頼連が天正10年(1582)、明智光秀の謀反に加担したため、光秀が山崎の合戦で敗北すると秀吉方の諸将に攻撃され、城も教会も焼き払われて三箇氏は滅亡、保護者を失ったキリシタン領民も四散し、三箇は廃墟と化した。 落城時の攻撃側の軍兵による破壊と略奪は凄まじかったらしく、1591・92年のイエズス会年報には、三箇一帯が「収穫後のブドウ園のごとく、一房の実も残らず」という状態であったことが記録されている。この戦災に加え、宝永元年(1704)の大和川付替工事、それに続く深野池埋め立てによる地形の変化もあり、今では宣教師の報告によって遠くヨーロッパまでその名を知られた三箇氏の痕跡はほとんど残されていない。わずかに大東市の総社である菅原神社前に、このあたりに城があったということを示す碑がひっそりと建っているのみである。
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江戸時代の享保年間(1716〜1735)に備後福山藩主阿部正福に召し出された三箇頼雄という者がおり、この一族が河内三箇氏の子孫を称している。頼雄の孫三箇意雄が江戸後期に作成した『三箇氏系図』によれば、三箇氏は藤原氏秀郷流で、源義経に仕えた佐藤忠信の後裔であるという。治承4年(1180)、奥州藤原氏に身を寄せていた義経が兄頼朝の許に参陣しようとした時、藤原秀衡は家臣の佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて平泉を送り出した。佐藤兄弟は義経に従って活躍するが、継信は屋島の合戦で討死、忠信は義経が頼朝に疎まれて追討を受ける身になると、一時義経とともに吉野に潜伏し、のち京都に上って討死した。忠信の子に義信という者がおり、父の死後、吉野に近い大和国宇智郡今井庄小山の地に住した。そして信純を経て信之の代の貞永元年(1232)、小山城主井上重利が起した反乱の討伐戦に参加した功によって宇智郡内に所領を与えられ、その子頼之は執権職を退いた北条時頼が諸国回遊中に大和に立ち寄った際、頼の一字を賜り、次の包頼の時に河内国讃良郡三箇村に移住し、地名を取って佐藤から三箇に改め、その後、頼繁の代に後醍醐天皇から大和国十市郡にも所領を与えられ、野原、宇野、坂合部、岡、秋山などの諸家と同族関係を築いて繁栄したという。作成時期や北条時頼の諸国回遊というヨタ話が記載されている点からして系図の信憑性、とくに頼照以前の人物については疑わしいが、奈良県五條市には中世宇智郡今井庄三箇の城主であった三箇氏の子孫が現存しており、畠山政長発給文書(河内誉田城合戦で三箇与五郎が戦死した際の感状、与五郎の跡継ぎである春熊への所領安堵状など)から、室町時代中期に今井庄に三箇氏という国人領主がいたことは確認されている。この家と河内三箇氏との関係については不明だが、イエズス会の修道士ルイス・デ・アルメイダが永禄8年(1565)、河内三箇を発った後に大和の沢、十市を訪れ、同地で一時的にキリスト教が栄えたこと、本能寺の変後、三箇城が秀吉方に落とされた時、頼照の家族が筒井順慶の許に逃れて保護されていることなどは、河内三箇氏が大和の勢力と繋がりを持っていたことを窺わせるもので、おそらく両家の間にも なんらかの交流はあったものと思われる。『三箇氏系図』では鎌倉中期に佐藤氏が河内三箇に移住したのが始まりとされているが、実際には室町時代に河内守護畠山氏が宇智郡の分郡守護を兼ねた関係で今井庄三箇の三箇氏が畠山氏の被官となり、その一族から河内三箇城主となった者が出たとするのが正しいのかもしれない。今井庄三箇氏の出自は藤原氏ではなく清和源氏頼親流であり、この点異なるが、河内三箇氏が戦国期に藤原氏を称していたかどうかは定かではなく、系図の作成者である意雄がのちに藤原氏秀郷流の淡輪氏に養子入りした際に仮冒したとも考えられる。なお、三箇頼雄の子孫は福山藩士として家名を残し、今井庄三箇氏の本家は江戸期には武士ではなかったが、郷士級の家として続き、一族の中には旗本能勢氏の家臣となった者などが見られる。
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三箇氏主要人物
三箇 頼照 生没年不詳
伯耆守。洗礼名サンチョ。三好長慶に仕える。永禄6年(1563)、飯盛山城で日本人修道士ロレンソの説教に接して改宗を決意し、翌年、宣教師ガスパル・ヴィレラを招いて受洗、この時、一族や家臣の多くが共に改宗し、妻もルシアという洗礼名を持つキリシタンとなった。頼照は西洋の文物目当てのエセキリシタンではなく、実際に熱心な信徒であり、宣教師の生活にも保護を与えたため、「予が日本で見た最も信仰厚きキリシタンに属す」(アルメイダ)「イエズス会士に対して真の父の如き庇護を与えた人」(フロイス)と、彼らの間での評価はかなり高い。永禄11年(1568)にはロレンソやフランシスコ・カブラルらの前でキリスト教と日本人の宗教観に関する演説を行ったが、カブラルはこれに非常な感銘を受け、この内容を当時ポルトガル領であったインドのゴアに送って日本人の賢明さについて喧伝している(この演説は三箇で1572年に行われた降誕祭か73年の復活祭の時のものともいう)。長慶の跡を継いだ三好義継の滅亡後は織田信長に仕え、佐久間信盛の指揮下に入った。天正5年(1577)、領内の社寺を全て破壊するという行き過ぎた行為があったせいか、同じ河内の小領主でキリシタン嫌いの多羅尾常陸介に毛利氏に通じていると讒訴され、信長によって近江永原に幽閉されたが、息子頼連の弁明と信盛の執り成しによって事無きを得ている。この前後、頼連に家督を譲り、自身は信仰に没頭、ジョアン・フェルナンデスはその日常を「彼(頼照)は常に教会に来り、昼夜同所に在り、既に一切を子に譲ったので、最早(三箇)城に行くことはない」と記している。本能寺の変後、頼連が明智光秀に加担したため三箇を追われたが、秀吉の追及は厳しくなかったようで、天正13年(1585)には大坂の聖堂で「使徒の如き人」として暮らしていることがグレゴリヨ・デ・セスペデスの書簡で確認できる。頼照の生年については不明であるが、フロイスは永禄10年(1567)当時の頼照を50歳とし、讒訴事件の時には「老三箇殿」と記しているから、この頃既に高齢だったのは間違いなく、武士として再び身を立てる気持ちはなかったのであろう。2年後にバテレン追放令が出されてからは宣教師オルガンティノの潜伏を助け、小豆島、播磨室津、堺、近江永原などを転々としているが、天正16年(1588)4月19日のオルガンティノ書簡以降はイエズス会側の史料からも姿を消しており、この後しばらくして没したものと思われる。 なお、頼照が本能寺の変後秀吉に捕らえられて斬首されたとか、白井備後守と名乗って豊臣秀次に仕えたというのは誤り。頼照が秀次に仕えた事実はないし、長久手の役で水野勝成と一騎打ちをし、のち主君に連座して京都大雲院で自殺した秀次家臣の白井備後守は頼照とは全くの別人である。
三箇 頼連 生没年不詳
頼照の嫡子。孫三郎。伯耆守。洗礼名マンショ。永禄7年(1564)、父の改宗時にともに受洗したと思われる。イエズス会側の文献における初見は『日本史』所収の1565年のアルメイダ書簡で、堺から水路河内飯盛に向かう途中のアルメイダ一行を、父の代理として船で出迎えた時である。この時の頼連をアルメイダは「年齢12歳くらいの少年、肩に火縄銃を担ぎ、両刀を帯び、非常に鄭重で風采も優れ、25歳くらいにも思われた」と記している。反キリシタン勢力への対策であろうが、小なりとはいえ一城主の世子が鉄砲持参で客人を出迎えるとはいかにも戦国時代らしい話である。年齢は少し若すぎるようにも思われるが、フロイスも『日本史』で1567年時のマンショを13歳としており、日本側文献による裏付けはないが大体そのくらいで正しいのかもしれない。ちなみにフロイスは頼連のことを「非常に器用で、甚だしく武技を好んだ」と記している。天正5年(1577)、父の隠居により家督を相続。同年、毛利氏に通じているという多羅尾常陸介の讒言で所領没収の上信長に殺されかけたが、尋問の際の態度と弁明が非常に立派であったために信長は感服して疑いを解き、さらに懇意であった佐久間信盛の執り成しもあって旧領に復帰することができた。もっとも、天正6年(1578)に起った荒木村重の反乱と一族の処刑、翌8年の林秀貞・佐久間信盛の追放などは、信長に一度疑われた以上、織田家臣として生き残るのは難しいという考えを頼連に植えつけるのは十分だったであろうし、結果的に多羅尾の讒言から始まった一件が頼連を明智光秀の反乱に加担させ、三箇氏を滅亡に追い込む要因となったのは間違いない。光秀の敗北後、頼連は秀吉方の河内国衆に攻撃されて三箇を追われ、大和へ逃れたが、信長の後継者としての地位固めに忙しい秀吉は三箇氏程度の小勢力など眼中になかったのか、深く追求はせず、筒井定次に仕えることを許している。しかし、以後の人生は完全に下り坂となり、のちに秀吉の甥(小早川秀秋か羽柴秀勝?)に請われてその家臣となったものの、文禄の役に従軍した際、些細な事でその主君の怒りを買って浪人し、次いで肥後宇土領主小西行長に仕えて上津浦に所領を与えられたが、慶長5年(1600)、関ヶ原の敗戦で小西家が取り潰された後は消息不明となった。武士を捨てて故郷の三箇に隠棲したとも伝えられる。かつて信長を感服させた程の男にしては、 寂しすぎる後半生であった。
三箇 頼雄 生没年不詳
頼照の2男。飛騨守。『三箇氏系図』によると、織田信長に仕えて天正10年(1582)5月、高野山衆徒との戦いで戦功があったという。和州宇智郡今井庄に住す、という今井庄三箇氏との関係を匂わせる記述もある。ちなみに今井庄三箇氏にもほぼ同時代に飛騨守某という人物がいたことが、同家に伝わる『三箇家親類書』などで確認できる(田中慶治氏の論文「三箇家親類書考」による)が、両者の関連性については不明。
三箇 頼稙 1570?〜1622
頼照の末子頼遠の長男。有馬セミナリヨの1588年イエズス会士名簿に、「三箇アントニオ 1581年入会 18歳」という者がおり、確証はないがこれは頼稙を指すのではないかとされている。イエズス会側の記録によれば、アントニオは河内三箇の人、武家の出で、天正9年(1581)に安土セミナリヨに入学し、同15年(1587)有馬に移った。のち病弱のため退会したが、信仰熱を失わず、江戸幕府の禁教令発布後も修道士としての生活を続け、布教に励んだという。元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の立山において火刑に処せられ、妻マグダレナや他の信者55名とともに殉教を遂げた。アントニオは武家の出身であるため、棄教すれば助命すると幕吏に持ちかけられたが拒絶したと伝えられる。1867年、ローマ教皇ピウス9世によって福者に列せられた。なお、アントニオ=頼稙説については、アントニオがガルシア・ガルセスに宛てた書状の中で頼照のことを結城弥平次と同様にdevanciers(先祖若しくは先輩の意)と呼び、祖父とは呼んでいないこと、伯父にあたる頼連(天文23年・1554年頃の生まれ)との年齢差などを考えるとやや疑問も残る。あるいは父頼遠は庶子で、頼連より年長だったのかもしれない。
三箇 頼成 1572?〜1615
頼遠の2男。有馬セミナリヨの1588年イエズス会士名簿に、「三箇マティアス 1585年入会 16歳」が見え、頼成にあたるとされているが、頼稙同様確証はない。マティアスは天正13年(1585)、大坂セミナリヨに入学、同15年有馬に移った。翌年の名簿には「ラテン語第2級生、日本文学中級」とある。以後、有馬・長崎・島原で説教者として活躍するが、慶長19年(1614)、高山右近らとともに国外に追放され、マニラで没した。イエズス会の『1691年度日本管区年報』は、1660年代〜80年代にかけてシャム、カンボジアで単身布教活動を行っていたマカオ生まれの日本人神父イグナシオ・サンガが2年前に58歳で没したことを伝えている。マティアスの縁者であろうか。
注:1611年に成立したイエズス会日本管区は東南アジアの一部(シャム・カンボジア・アンナン・コーチシナ・ラオス)を活動地域に含んでおり、日本国内でキリスト教が禁止されてからも管区長がマカオに滞在して同会が一時的に解散させられる1773年まで存続した。
三箇 重武 生没年不詳
頼連の長男頼武の子。母は池田三郎左衛門教重の女。外祖父教重より一字を与えられて重武と名乗り、以後三箇氏当主は為重まで代々「重」を通字とした。教重については詳細は不明。あるいは頼照と同時代に活躍した河内のキリシタン武将で、織田信長に仕えて若江城主となった池田教正(丹後守・洗礼名シメオン)の子孫か。
三箇 重則 ?〜1637
頼武の3男。角兵衛。備後福山藩主水野勝成に仕えたという。重則以後、三箇氏当主は代々角兵衛を通称とした。
三箇 為重 ?〜1748
重光の子。佐分利流槍術の使い手で、水野勝貞・勝種・勝岑の3代に仕え、元禄11年(1698)5月30日、勝岑が2歳で没して福山水野家が断絶すると浪人となり大坂へ移住したという。しかし、水野家改易時に作られたと思われる『水野家分限帳』には三箇姓の者はおらず、経歴には疑問が残る。改易以前に福山藩を去っていたのかもしれない。
三箇 頼雄 ?〜1761
為重の子。妻は筑後柳川藩の医官淡輪元潜(二世・名は重泰)の女。享保年間に江戸で阿部伊勢守正福に召し出されて備後福山藩士となり、正福が大坂城代であった延享2年(1745)11月から同4年12月の間、藩の用人を務めた。禄は250石。元潜の家は樫井古戦場跡の頁で紹介した淡輪氏の子孫である。
三箇 時朗 ?〜1780
頼雄の子。名は親雄ともいう。備後福山藩士。長柄奉行を務めた。禄は100石。時朗以後、福山藩士三箇家は知雄(使番格)・林雄・頼雄(供番)と続いた。時朗とその2男意雄は隠れキリシタンであったという伝承がある。
三箇 意雄 1765〜1821
時朗の2男。廉助。号は無着。妻は大坂在住の医師で筑後柳川藩の医官でもあった淡輪元潜(三世・名は重弼、二世元潜の養子)の女。山脇東海の下で医術を修め、元潜の実子政翼(のちの四世元潜)が幼少で家業に就けなかったこともあって一時元潜の養子となり、柳川藩籍に列して淡輪元朔と名乗った。養父ともども医者として令名高く、諸国を巡って各地の医療情報を収集、寛政3年(1791)には蝦夷地に渡り、同地の状況を記録した『東奥遊記』を著している。政翼成人後は三箇姓に復し意雄と改名、文政4年(1821)9月11日、57歳で没した。子がなく、政翼の2男重轄・3男政輻が跡を継いだが、政翼の長男重軌の早世によりまず重轄が実家に戻り、その重轄も早世したために結局政輻が淡輪家を継ぎ、代わりの継嗣が立てられず意雄の系統は断絶した。墓所は養父と同じ大阪市天王寺区の梅旧院。